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物集女周辺は水路や街路など地図で見ると興味深いが、現地に行くと、あまり遺構が残されていない。この城跡も含め、保存と遺跡整備が進められることを期待する。
たしかに高みにあるので眺めはいい。しかし城跡らしい痕跡もちょっと見にはわからない。私有地であるため、入れない。広い畑の北側に小さな森がある。城跡を示すなにかがあるのか、小規模な古墳なのか。西岡衆は室町後期から、自治を敷きそのなかでも物集女氏は有力者であった。細川藤孝が領地安堵の返礼に来るように、勝竜寺城に物集女氏を呼んだところ「元から自分の領地。なんで礼言わなあかんね!」と拒絶。後に誘殺された。
発掘調査により、南北75m、東西70mの規模を有する城であったことがわかっています。物集女氏の居城と考えられ、長享元年(1487)の上久世庄(現・京都市南区)の古文書に、物集女四郎右衛門尉光重という名前も見受けられます。 織田信長が山城地方を治めるようになる天正元年(1573)、桂川西岸一帯の支配を任せられた細川 藤孝は、周辺の各城主に信長に従うよう命令をしました。 しかし、物集女氏の当主忠重入道宗入はこれに従わず、天正3年(1575)に勝龍寺城において殺されてしまいました。
物心つく前の幼い頃、この辺りに住んでいました。物集女という地名は、羅城門の時代、洛外のこの辺りには物を拾って集める女がいた…といった言い伝えによるのかと勝手に思い込んでいましたが、物集女氏という人がいて城まであったとは。中世前期のこの辺り、桂川より西の久世、桂、物集女には何もなかった訳ではなく、そこここに人々の暮らしの痕跡が残っていることにロマンを感じます。