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2021年8月21日に訪れました。この地に最初に城を築いたのは、長野県佐久市から応仁元年1467年に入封した大井義久だと言われています。その後、由利諸頭総攻めで最上義光の所領になったり、最上氏の改易で元和9年1623年に打越左近光隆が返り咲いたりしました。打越氏も跡継ぎが途絶えて寛永12年1635年絶家となりました。その後、寛永17年1640年に生駒高俊が高松市から移り、幕末を迎えました。戊辰戦争では、いち早く官軍側に立ちました。奥羽越列藩同盟軍に急襲され、やむなく城を自ら焼いて退却しています。現在は、学校前にお濠が残っています。
東側に張り出した台地の先端部に城跡があり現在は小学校や神社などになっています。神社が建っている所は台地の最頂部に位置していて北側から南側は急斜面となっています。標柱脇には水濠が残っています。