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2021年5月現在、岩殿山を登るルートは西側からの浅利ルートと北側からの畑倉ルートがあります。丸山公園からの強瀬ルートは通行止めとなっています。山頂には畑倉ルートから行き、30分くらいかかりました。木漏れ日が射して明るく見通せる道でしたが、くねくねと曲がった上り坂は慣れていないせいか苦労しました。山頂付近では滑りやすくなっており、鎖に掴まり登りました。帰りの下り坂は比較的楽でしたが、滑りやすく、2回尻もちをつきました。
「三カ所にある物見台を総合した本陣で防衛や進攻の指令を発した。」とされているようです。あたりは開けた空間が広がってます。夏場は木々が生い茂っており富士山方向は見えませんでした。少し離れたところに大月駅や大月市内を見下ろせるスポットがあります。
大手からの登城はルートの落石のため通行止め。搦手からの登山ルートのみ通行可。こちらは登城のとっかかりの窟(これは一見の価値があります)以外本丸まで遺構無い。山頂の城域は遺構良く残り、特に大手の揚城戸は迫力。必見です。
他の人が、書かれている通り2022.05.04現在も畑倉登山口からしか頂上に行けません。登山口へは、バス時刻表に合わせて行くか、大月駅から35分歩いて行くかです。城跡だけ見るつもりでしたが稚児落としまで、登って来ました。尾根伝いを歩き、鎖場を昇り降りしてると登山してる気になりますね。
岩殿城のある岩殿山は、元々13世紀には修験道の場として栄えた場所で、16世紀ごろはこの地を治めていた武田氏の家臣の小山田氏の支配下にありました。相模、駿河と接する地域でもあるので境目の城として重要な役割を果たしていたともいわれています。特に岩殿城が歴史的に名前が出てくるのは、武田勝頼が織田軍の甲斐侵攻を防ぎきれず新府城から落ちる時に、家臣の小山田信茂の誘いで岩殿城を目指しますが、途中で信茂が織田に寝返り、天目山で自害したエピソードです。江戸時代に入ってからも徳川家康が幕府の有