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もとは岡山と呼ばれ、元和元(1615)年夏の陣の大坂落城のとき、徳川秀忠がここで戦勝の宴を催したことから御勝山の名で知られるようになりました。
勝山という町名の由来となった御勝山古墳は、中臣(藤原)氏の祖である大小橋命(おおおばせのみこと)の墓だといわれていますが、明らかではありません。
古墳時代中期の前方後円墳の一部!大坂の陣、徳川方の本陣後とも記されてます!現在柵の中には入れません!道路向いに御勝山南公園が有りました!歩道橋あり!
#四天王寺 伽藍中心の #転法輪石 春分・秋分の日の出・日の入の方位を指します。東の日の出ライン上に #物部守屋祠。さらに1.8キロ先に #御勝山古墳(後円部の墓域中心)さてこれは偶然でしょうか(検索:ものづくりとことだまの国2021年4月6日)
大阪の陣で徳川秀忠が陣を敷いた地で古墳でもありますが原型を留めていません。道路で分断されてますがその道路の歩道橋から眺めて当時を偲ぶほかありません。
5世紀前半に築造されたとみられる全長約120m、かつては周濠を有した前方後円墳であったようです。あったようですと言うのは変ですが、現状は後円部のみ現存しており前方部は完全消滅しています。後円部も大阪冬の陣で徳川秀忠が本陣をかまえ、かなり削られて原型は留めていません。埋葬施設は不明のようです。後円部はフェンスに囲まれ墳丘には立ち入りできません。見どころは少ない古墳かもしれないですが、開発が進んだ大阪市内に5世紀から残っている事が素晴らしいと感じました。