全国17万以上の観光・観光地クチコミ検索サイト
木村巽斎(一七三六~一八〇二)は近世大坂が生んだ最も著名な文人であり町人学者である。北堀江の邸内の古井戸で芦の根が出たことから、浪速の荻と芦(蒹葭)に因んで蒹葭堂と名のった。
木村蒹葭堂とは、坪井屋吉右衛門という江戸時代後期の商人の書斎の名前であり、本人の呼び名でもあります。木村蒹葭堂は文化人であり、名品珍品コレクター、草本学者でもあります。木村蒹葭堂の元には収集した名品珍品、彼の博識を求めて全国から多くの知識人が訪ねて来たそうです。また、木村蒹葭堂のすぐ近くには、土佐藩の大坂蔵屋敷がありました。土佐藩の大坂蔵屋敷跡地は、土佐藩の借金を引き受ける対価として岩崎弥太郎氏に無償譲渡され、三菱社が東京へ移転した際に大阪府に譲渡されています。土佐稲荷神社も、土佐藩大坂蔵屋敷の中にありました。ちなみに、木村蒹葭堂はこの石碑の場所ではなく、すぐ近くの別の場所にあったそうです。
木村 蒹葭堂(きむらけんかどう)は、江戸時代中期の日本の文人(ぶんじん)・文人画家・本草学者・蔵書家・コレクター。大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋を兼ねる商家の長子として生まれる。名は孔龔、幼名は太吉郎、字を世粛、号は蒹葭堂の他に、巽斎、通称は坪井屋吉右衛門。 蒹葭(けんか)とは葦のことであり、「蒹葭堂」とはもともとは彼の書斎のことである。