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三吉陵墓参考地として宮内庁が管理してますので、立ち入り禁止です。外観のみの見学です。被葬者は敏達天皇の皇子で、舒明天皇の父親にあたり、天智、天武天皇からみると祖父にあたる、押坂彦人大兄皇子?
「にきやまこふん」と読む。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「三吉陵墓参考地」(被葬候補者:第30代敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子舒明天皇御父)として陵墓参考地に治定されている。宮内庁が三吉陵墓参考地として管理しているため、一般市民は立入ることは出来ない。南北走向の低位丘陵から東へ派生する小支丘を利用して築造されている。墳丘の主軸はおおむね東西にあり、両くびれ部に造り出しが存在する。その形態は巣山古墳のものに似ている。濠の幅は後円部で18メートル、前方部で22メートルほ
5世紀前半に築造されたとみられる。墳丘長200メートル、前方部を東に向ける大型の前方後円墳です。周濠と外堤を伴いますが、現在の周濠は北側を除き、ほぼ農地等に転用されています。古墳南側のくびれ部には造り出しがあり、かろうじて確認できます。宮内庁により、押坂彦人大兄皇子の陵墓参考地として治定されていますが、広陵町にある牧野(ばくや)古墳が真の陵墓(成相墓 ならいはか)の可能性があるようです。ビューポイントが少なく、全体像がわかりにくい古墳でした。