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両国で住み込みで働いていた時に、週に一回埼玉に帰る時は、せっかくだから隅田川で渡る橋をその都度変えていたんだけど、雷門が見たくて吾妻橋を渡って念願の雷門を見たら、その先にすごいものがあった。関東大震災の時に浅草の名所だった浅草12階が真ん中からぽっきりと折れてしまったという話は歴史の本で読んだことがあるんですけど、その浅草12階を模したものがあったのがびっくりでした。墨田区にある震災慰霊堂の中にもその絵が飾ってありますが、まさかそれが見れるなんて考えてもいませんでした。あとになって仁丹塔という名だと教えられましたが、私の浅草の第一印象は、その塔のせいか「浅草って変わってる」というものでした。
今では20年以上も昔となった平成10年撮影。現在は、スーパードライの看板ですがこの頃は、まだ仁丹でした。どちらも口がすっきりしますね。今はスーパードライの方が欲しいですが、令和10年ぐらいになったら仁丹の方が欲しくなるかもな。ま、明日から令和になりますが、更に新しい時代に合わせて看板が変わってくんでしょうねー。時代は、待っててくれませんね。
「中将湯」の発売を開始。本社社屋にガスイルミネーションを設けるなどの広告展開を行った。その一環として、凌雲閣(浅草十二階)そばの活動写真館「千束館」の屋上に看板を設けた。1905年に森下南陽堂(同時期に森下博薬房に改称、現在の森下仁丹)が「仁丹」を発売すると、中将湯に代わり千束館の屋上に看板を掲出した。これが仁丹と凌雲閣との関わりの始まりです。他にも新聞広告や薬店の突き出し看板、京都市内の町名表示板などに広告を展開し、薬局や祭礼地などには「仁丹遊園(仁丹パーク)」と呼ばれる自