全国17万以上の観光・観光地クチコミ検索サイト
2019.3.2 大阪城梅林近くに位置し、観光バスや乗用車でお越しの来園者が、大阪城天守閣へ行く際には必ず通過するスポットです…。観光地化されてますが…外国人観光客はもとより、日本人観光客にも目に止まる方は少ない様です。
豊臣秀吉が大坂城を築城する前、上町台地最北端のこの地に本願寺八世蓮如上人によって創始された大阪本願寺があったことは周知の事実である。本願寺時代の末期には織田信長が十年の歳月をかけても攻めあぐねたというだけあってよほど巨大な要害となっていたらしく、秀吉時代の本丸は本願寺時代の石垣、堀の多くを転用したものとする説さえあるほどだ。その後の複雑な歴史も相まって当時の遺構は何一つ残ってはいないのが実情だが、(伝承上のこととは言え)今の大阪城内で唯一、蓮如上人にゆかりがあるとされるのが、
豊臣秀吉が大坂城を築く以前の戦国時代、浄土真宗の本願寺第八世蓮如上人は、現在の大阪城の地に坊社をつくり(大坂御坊)、今は切り株だけになっているここの松に袈裟をかけ、宗派の繁栄を祈ったといわれる。切り株は徳川幕府が再築した大坂城の地表にあることから、これはあくまで伝説に過ぎない、と考えられるが、西側に「南無阿弥陀仏」の石柱が建てられるなど、大坂(石山)本願寺時代の記憶をとどめる史跡として保護されている。
本願寺第8代蓮如上人は明応5年9月此の地を選んで一宇の坊舎を建立し明応8年2月迄居住する、天文元年8月第10代証如上人は山科より本願寺を此の地に移し大阪石山本願寺と称す、ここに本願寺は大いに繁昌し道俗男女群集した、永禄.~年(元亀元年)織田信長本願寺に難題を申し入れ遂に石山合戦の発端をなす11年間攻防の末天正8年3月勅によって和議成る、天正11年豊臣秀吉大阪城を築く後時代は代われども蓮如上人袈裟懸の松の根のみが残りわずかに往昔を偲ぶ。