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「新陰流」の祖、上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)が永正五年(1508年)に生まれ居城していた場所と伝えられています。信綱は日本剣道史上の最高峰として、また「剣聖」ともうたわれその名は広く知られています。新陰流の理と技は柳生但馬守宗厳(やぎゅうたじまのかみむねとし)(石舟斎せきしゅうさい)らに伝えられ現在も脈々と受け継がれています。
上泉城(かみいずみ・★★群馬県前橋市上泉町)は、大胡城の支城として築かれ、一族の「上泉氏」が在城していた。戦国時代の赤城南麓地帯は、その大半が大胡領と言われており、大胡領は「大胡氏」によって領有されていた。城域は、東西600m、南北400mに達し、県指定の「郷蔵」付近に、本丸と二の丸の跡が残っている。また、西林寺付近は一の郭、玉泉寺付近は出丸跡と推定されている。
上泉信綱(城の主)は全国各地の剣豪を訪ねて、求められるまま新陰流の秘奥を披露しました。伊勢国(現在の三重県北中部)の国主でありながら「塚原卜伝」から「一之太刀」の印可(力量を得た者に師が与える証明)を与えられた「北畠具教」、「宝蔵院流槍術」の開祖「覚禅坊胤栄」など。しかし、誰もが上泉信綱の剣技を見ると、あまりのレベルの違いに立ち会うことすらできなかったと言います。数少ない立ち会いのひとつが、大和国(現在の奈良県)で武芸者として知られていた「柳生宗厳」です。結果は散々。向かい合
新陰流の開祖の上泉信綱公の生誕地でもあるので、信綱公銅像があります。観光パンフレットも備え付けられています。ただし、毛虫がそこそこいるので、注意は必要です。
城の遺構はよく分からないのですが、剣聖上泉伊勢守の顕彰碑と銅像が建っています。ボタンを押すと自治会館のスピーカーから「剣聖上泉伊勢守の歌」が大音量で流れてきます。