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城とはあるが今目にする城ではない。舘と言ったほうが相応しいであろう。これを見るに城の周囲は完全防備である。時代の移り変わりと言うものはさぞや厳しかったであろう。
築城年代は定かではないが中世は秋月氏の所領で家臣が城主であったと考えられている。後に黒田氏の六端城の一つとなり中間六郎右衛門統胤が城主となった。一国一城令によって廃城となった。
麓に整備された綺麗な駐車場から、少し山道をクネクネと登ると、杉林が拓けて城跡の石垣が見えてきます。整備されてよく見える部分はおおよそ南北30m、東西60mの範囲の主郭のみですが、しっかりと積まれた野面積みの石垣、礎石建物の痕跡が近世城郭の名残を残しています。一国一城令後破城され、発掘調査時は広範囲は崩れた状態だったようですが、発掘調査後、一部を除いて石垣をある程度復元整備され、ちゃんとその表示もしてあります。曲輪の周りには、南北に畝状空堀(畝状竪堀)東に堀切群があり、よく観察
戦国時代、松尾城は秋月氏の家臣の宝珠山山城守の居城だったと考えられています。1582年に大友宗麟の小石原攻めで打ち崩されました。1601年には、黒田長政の福岡入城に伴い、領内の6端城のひとつとして設置され、黒田六郎右衛門が城主となります。しかし一国一城令により、1615年には廃城となります。