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安積親王は聖武天皇の第二皇子。基皇子死後は唯一の男子として皇太子の有力候補に数えられていたが、実際には阿倍内親王が皇太子となった。天平十六年(744)聖武天皇の難波宮行幸時に脚病を患い、恭仁京へ戻った後没する。
和束の中心部(四つ辻の交差点あたり)に入ってくる北北西方向に目に入ってくる茶畑の中のこんもりとした杜。知らないと神社の杜かと思うけど聖武天皇の第五皇子で17歳で夭折した安積親王(あさか)陵墓。中の墓?というのかどうか(天皇家の場合)何が入ってるのだろう? 大きな錠前がかかった鋼鉄の柵が何故か印象に残った。当時風に考えれば、病死とも暗殺とも言われている皇子の無念を封印しているのだろうか(私の勝手なこじつけです!)
安積親王は、聖武天皇の第二皇子。母は県犬養広刀自。皇太子の基皇子が死去したため、聖武天皇唯一の皇子であり、皇太子の最も有力な候補となったが、光明皇后を母に持つ阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子される。17歳で死去。藤原仲麻呂に毒殺されたという説もある。大伴家持と親しい。