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とっても雰囲気のある遺構なんだけど、耐震性がどうとかでしばらく入構禁止になってます。夏場は涼しくて最高なんだけどね。調査なら冬場にすればいいのに。
現在は全ての壕の入り口は塞がれ、中には入れないようになっている。敗戦から10年後の昭和30年に工場跡地の壕に入った人の話によると、当時、壕には自由に入れたが、すでに壕の奥はいたる所に崩落があり、その崩落場所のわずかな空間を這い潜って奥に進む「探検遊び」が人気であったという。天井には電気の配線があったらしいが、真っ暗なので、明かりは松の枝を拾い集めて手作りの松明(たいまつ)を作ったという。飛行機工場とはとても思えないほど壕の中は狭かったらしい。古墳時代の人が粗末な道具で横穴が掘
太平洋戦争中、この岩山の地下に中島飛行機の地下軍需工場を建設するため、岩山の最下部に大きなトンネルが碁盤の目状に掘られ、その出入口として吉見百穴には3か所の坑口が掘り出された。
太平洋戦争末期に建造された地下軍需工場跡地。さいたま市(旧大宮市)にあった中島飛行機製作所の大宮工場(富士重工業、スバル前身)を国策により疎開させたもの。当時軍用機の供給会社であった中島飛行機各工場は米軍の本土爆撃の最重要攻撃目標の一つであった。建設に際しては断末魔のあがきのごとく、3000名近い朝鮮からの強制連行者などに過酷な工事労働を強いたらしい。しかし実際の工場としてはほとんど稼働せず終戦を迎えている。それにしてもすでに名勝として知られていた百穴にわざわざボコスカ穴開け