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秩父宮は昭和10年8月に弘前歩兵連隊に赴任されると、翌年2.26事件のあと12月にお離れになるまでの間、勢津子妃を伴われてじつに精力的に青森をお歩きになった。むつ市田名部の斗南ヶ丘にお立ちになったのは昭和11年10月のこと。迎えに出た旧会津藩士の子孫は万感胸に迫るものがあったといわれる。賊軍とされ下北半島に追いやられた積年の恨みが、いま晴れたからだった。胸に迫ったのは会津藩主の子孫の立場から「会津魂」をもって秩父宮家に嫁した勢津子妃にとっても同様だったろう。
建造物など痕跡は無いようで石碑と説明板のみ有りました。土塁が微かに遺っていると説明板に書かれていましたが、どこかよく分かりませんでした。また、ここで当時どれだけ厳しい生活を強いられたかを窺い知ることも難しいと思います。
戊辰戦争に敗れ朝敵とされた会津藩の転封の地。敗れたとはいえ新天地を育ててやってやるぞ!との心意気だったことでしょう。・・・しかし土地は作物を育てるのに厳しい環境、先からの住人との軋轢もあり、子は朝敵の子といじめられ、「ここは会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と艱難辛苦に耐えながらも、最初の冬を越せぬまま亡くなった方も多かったといいます。現地に赴きますと兵どもが夢の跡、説明版と標識の他は礎石というか土台らしきものが少々残っている程度で、野原と化しており、無念の想いが情念として伝わ
2020年9月26日に訪れました。今回で3回目の訪問になりました。以前あった樹木が伐採され、明るく開けた感じになっていました。土塀の跡が残っています。秩父宮両殿下が、下北半島を後巡遊された際の記念碑が建っています。高橋是清が、どんな少年時代をここで過ごしたのか、思うところが多い場所だと思います。