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うちの先祖は、ここで大館宗氏を守って、本間山城左衛門らに斬り殺された11人の1人です。この戦いが元で、新田義貞は、極楽寺からの鎌倉侵入を諦め、海から進撃することを決意しました。それを知った本間山城左衛門ら一族は、成就院で自害したと言われています。
1333年(元弘3年)鎌倉攻めの新田義貞軍の浜手の大将大館宗氏(おおだてむねうじ)は大軍を率いて極楽寺坂の切通しへ攻め込みましたが、北条方の猛反撃をうけて多数が討ち死にし、総退却になりました。
元弘三年(1333年)、新田義貞の鎌倉攻めに際し、新田氏の一族である大館宗氏は極楽寺坂の切通しから鎌倉へ攻め込みました。しかし、北条方の反撃にあい、宗氏以下11人は稲瀬川で討ち死にしたと伝えられます(「太平記」「梅松論」)。十一人塚は、その11人を埋葬し十一面観音堂を建てて霊を弔った所と言われています。
2021年1月22日自転車で大仏坂切通しに向かう前に寄りました。新田義貞が稲村ヶ崎から鎌倉を攻めた時、11人の武将たちが勇敢に戦い討死した。この11人を弔った所です。
1333年、上野国新田荘で打倒鎌倉幕府の旗揚げをした新田義貞に従い、新田氏の一族である大館宗氏は極楽寺坂の切り通しから鎌倉へ攻め込みました。しかし、幕府軍北条方の反撃にあい大館宗氏以下十一人が稲瀬川付近で討死をしたと、南北朝時代の歴史書である太平記・梅松論が伝えています。この十一人塚は、その十一人を埋葬し十一面観音堂を建てて霊を弔った場所だと言われています。